四国霊場八十八カ所の開創は、弘法大師が42歳の厄年の頃、四国の未開の地を歴訪して難行苦行の末大成させたものといわれています。遍路の起源については明らかではありませんが、平安末期にはあったらしく、特に江戸時代の文化、文政の頃には最盛を極めたと言われています。

 一番霊山寺に始まり、八十八番大窪寺で結願する四国巡礼は阿波23カ所を発心、土佐16カ所を修行、伊予26カ所を菩提、讃岐23カ所を涅槃(ねはん)の道場として昔は40〜60日をかけて遍路したものですが、現在はマイカーやバスで巡礼する人がほとんどです。 

 ここ1〜2年の間で特に若い人々の間で歩き遍路をする人が飛躍的に増えていると言われています。確実で普遍的なものがないこの時代で、社会や職場、学校での不安や葛藤から逃れ、辛い歩き遍路をすることで自分を確かめ、何かをつかもうとしているのかも知れません。
 
 板野郡には第三番の金泉寺から第九番の法輪寺までが存在します。正確には第一番霊山寺、第二番極楽寺はお隣の鳴門市大麻町に属しますが、併せてご紹介いたします。一番札所から「仮想巡礼」をしてみましょう。
 子供の頃、いつも決まってチリーンと鈴の音がして、お経を唱える声がすると白装束を着た人が玄関で立っているのです。あわてて家族に「おへんろさんがきた」と伝えにいくと、家の者はほんの某かのお金といくらかの食料を渡すのです。それは時にはタクアンと冷えた飯だったりするのですが、「おへんろさん」は喜んでそれを受け取り次の家に向かうのです。

 「托鉢」をしながら苦行のお遍路をしている人だったのですが、私の家に来るような「おへんろさん」は、子供心によほど貧しい人でないかと思っておりました。かつてはこのように苦行をしながら遍路をする人々が多かったのですが、今日、歩き遍路をするのは極めて恵まれた贅沢な遍路とされています。即ち、お金、暇、健康がなければできないものであるからです。しかし、今も昔も歩いて遍路をする人はそれぞれ胸に深い思いを抱いているという点では共通しているようです。


第一番竺和山 霊山寺 一乗院 

 天平年間(729〜48)に聖武天皇の勅願により行基が開基したとされる由緒ある寺で、弘仁6年に弘法大師が四国霊場を開創するとき、21日間の修行を行ったと言われています。本尊の釈迦如来は弘法大師の作と言われ、左手に玉を持っている坐像です。大正、明治の2度にわたって火災のため、堂塔の大半を失ってしまったとされています。

 四国霊場八十八カ所巡りを決意した人がまず最初に訪れるお寺ですので、観光バスやマイカーがひっきりなしに訪れ、参拝客でいつも賑わっています。八十八カ所巡拝を終わり、88番大窪寺で「結願」と呼ばれる願いが成就した後、高野山にお礼参りにいく前にもう一度この霊山寺にお礼参りをするのがよいとされています。
 
 霊山寺にはこれから遍路を始める人のために様々な遍路用巡礼用品が売られています。境内の中と、お寺に隣接して門前一番街と名打った食堂やショッピング街があり、巡礼に必要な品物のほとんどを手に入れることができます。最低限必要なものに、白衣上下(5千円)、金剛杖(千3百円)、菅笠(千3百円)、納札(2百円)、納経帳(千9百円)でさらに頭陀袋、手甲、鈴、念珠、輪袈裟、札挟みなどが必要とされています。また、納経帳にそれぞれの寺で朱印をもらうのに3百円必要で、88カ所でしめて2万6千4百円、遍路も結構お金がかかるものです。

 白装束は本来死に装束であり、かつては遍路が苦難の道のりであった頃からの、お遍路さんの命をかけた決意を示したものであると言われています。菅笠や金剛杖には同行二人(どうぎょうににん)と書かれており、いつも弘法大師様と一緒に遍路をしていると言う意味です。
 
 通常一番から八十八番まで順序よく回ることを「順打ち」と呼びますが、逆に八十八番から一番に向かって回ることもあります。これを「逆打ち」と呼び、すざましい程の願いを持った人や弘法大師にどうしても会いたいと願う人がこの方法を採ったとされています。また、一定の区間のお寺だけを回り、ひとまず休んだ後、また一定のお寺を回る方法を「区切り打ち」と呼びます。
 
 また、ここ霊山寺の近くには、大麻比古神社や第一次世界大戦後のドイツ人俘虜収容所の様子を展示したドイツ館があり観光客で賑わっています。